文化2年 | 九鬼一族の末裔が、塩紋と称する塩・肥糧問屋を開業。 その後、九鬼紋七肥料店として継承される。 |
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明治初期 | 九鬼肥料部として、魚豆配合のような有機配合肥料の製造開始。 |
明治30年 | 地元の肥料問屋を結集して、三重人造肥料株式会社を設立、配合肥料を製造販売。 また、この頃肥料運送の便を計るため、四日市港に3000トン級の貨物船2隻(小雛丸、筑紫丸)を擁した。 |
明治末期 | 主として北海道・樺太・北陸及び朝鮮産魚肥類を、植物性肥料としては、現在の中国東北省・大連産豆粕及江戸において“伊勢水”として親しまれてきた菜種油の油粕を近県下に販売。 この頃ラサ島の燐礦開発に携わる。 |
大正2年 | ラサ島燐礦株式会社(現在のラサ工業株式会社)の設立と同時に大株主の役員として、過燐酸石灰の製造事業に参画。 |
大正3年 | 会社組織に改組。合資会社九鬼肥料店(資本金10万円、代表者九鬼紋十郎)を設立。上記取扱品の他、ドイツのハーアーレンス社と日本全域への特約卸店契約を結び、四日市よりの指示で函館・横浜・名古屋・門司港等に積出し、四日市港積みも合わせて、年間30万トンに達した。 |
大正11年 | 合資会社を解散し、九鬼肥料店(九鬼紋十郎個人商店)として営業を継続。 |
大正15年 | 英国プラナモンド社の硫安を三井物産経由にて販売。 |
昭和初期 | 東洋人造肥料株式会社の過燐酸石灰、動物有機入り合成肥料「高千穂」を大々的に販売。 また、ドイツのハーアーレンス社の合成肥料(現在の化成肥料と同種)も輸入・販売した。 |
昭和6~7年 | 当時の主力商品だった北海道にしん粕の取扱いは年間25万俵(24貫建)以上に達し、北陸・北朝鮮よりの雑魚粕も、にしん粕と同様の取扱いがあった。 また、大連豆粕(1000kg袋入)は年間約50万枚程度を扱い、豊年の豆粕も特約販売してきた。過燐酸製造販売も年間30万トンに達した。 |
昭和12年頃 | 九鬼肥料店の平均年商取扱高2500万~3000万円であった。 |
昭和13年 | 石灰の製造・販売開始(鈴鹿山麗、西藤原) |
昭和15年 | 統制経済により、商品取引も急激に縮小。 |
昭和20年 | 九鬼肥料店を九鬼産業部と改称。 |
昭和25年 | 肥料統制解除とともに九鬼肥料店に再改称。自家製配合肥料を製造、販売店を全国各地に設けた。尚、化学肥料、化成肥料としては、特約店として電気化学工業(株)、東海硫安工業(株)、東亜合成化学工業(株)、ラサ工業(株)、石原産業(株)、住友化学工業(株)の三重県特約店として三重県下及び隣県下に販売した。 |
昭和34年 | 化成肥料製造設備を導入。 |
昭和36年 | 九鬼肥料店より製造部門を分離し、(株)九鬼製肥所(資本金500万円)を設立。同時に、従来の取引先の他、住友商事を通じて販路拡大に努めた。 |
昭和53年 | (株)九鬼製肥所を九鬼肥料工業(株)と改称。製造販売の組織を拡充し、北海道・九州・地区への販売拡大に努めた。 |
昭和56年 | 札幌出張所(現・札幌支店)設置。 |
昭和58年 | 釧路に北洋興産(株)(現・ホクヨー株式会社)を設立。釧路工場にて配合肥料の製造に入る。 |
昭和63年 | 十勝出張所を設置。(平成21年12月閉鎖) |
平成2年 | 九州出張所を設置。(平成18年7月閉鎖) |
平成3年 | 神戸出張所を設置。(平成13年9月閉鎖) |
平成4年 | 資本金8,000万円に増資。 |
平成12年 | 九鬼十三男が代表取締役社長に就任。 |
平成17年 | 創業200年ー温故知新・不易流行。 |
平成23年 | 会社設立50年、札幌開設30年。 |
令和2年 | 本社事務所を開設。 |